今回の動画は、「すべてはここから始まった。なぜ明治日本は日清戦争で戦争国家へと変わったのか?」ということで、やっていきたいと思います。
1、はじめに
このチャンネルでは、主に海外の政治や経済、社会について考察していますが、日本の歴史についてちょっと触れると、「それは違う」というコメントを度々いただいてました。

それで、よくよく考えてみると、日本史については、ほとんど深く調べたことがなかったので、今回は日清戦争をテーマに作りました。
なぜ日清戦争なのか?というと、調べていくうちに、不自然なツッコミどころがたくさんあったからです。
そして、それを解く鍵が、アメリカにあったんですね。
しかも、その理由が現在のトランプ政権にまで続いているということで、なかなかに大きなテーマになりました。
YouTubeで日清戦争で検索すると、数十万再生のものがいくつもあって、なかなかの人気テーマだと思うのですが、おそらく、他の人は絶対に言ってない内容になってると思いますので、ぜひ最後まで見届けてください。
それでは、参りましょう。
参考書籍
本題に入る前に、今回の動画で参考にした書籍をご紹介します。
それがこちらの「朝鮮開国と日清戦争」です。

著者は、渡辺惣樹先生という、近現代史の研究家で、YouTubeでも活発に活動されている方です。
渡辺先生は、海外の政府の公文書や政府要人の日記、書籍など、かなり幅広く史料をあたられながら、自説を展開される方なので、読んでて非常に説得力を感じますし、参考になります。
それでは、ここからが本題です。
2、日清戦争の不自然さ
まずは超ざっくりと、日清戦争について説明します。
日清戦争とは、1894年から95年にかけて、日本と当時の中国の王朝であった清国との間で行われた戦争です。

この戦争で清国に日本が大勝ちしたことを受けて、下関で講和条約を結び、多額の賠償金や台湾などの領土を手に入れることができたということで、歴史上の出来事としては、かなり高い評価をされていると思います。
しかし、この日清戦争は、いろいろと調べてみると、かなり不自然な疑問がたくさんあります。個人的に大きいなと思う疑問を4つほどあげてみます。
(1)なぜ明治戦争は、清と戦争したの?

(参考:wikipedia「ベンジャミン・ベシャイン・スミス」)
1つ目は、なぜ明治政府は清国と戦争したのか?ということです。
明治当初の日本政府は、イギリスという国がアヘン戦争やアロー戦争で、中国を植民地にしようとしていたキッショい国だということがわかっていたので、政府の顧問にアメリカのエラスムス・ペシャイン・ペシャイン・スミスを登用していました。
このスミスは、アメリカ型の経済システムを日本に教えた人で、
例えば、
①関税をかけて、自国の貿易を保護する
②公共事業でインフラを整備し、産業を興す
③政府が管理できる中央銀行の設立
など、アメリカが独立当初にイギリスからの経済的な独立をするために行った政策を導入することを勧めました。
それで、このアメリカ型の国家観は、基本的に海外への戦争を求めません。
全ての人間は、平等で、幸福を追求する権利があるという、独立宣言に書かれている人間観が元になっているため、
「他国の人だって同じ人間だよね。だったら、対等な関係で貿易することで豊かになるべきだよね」
ということで、海外とは戦争ではなく、貿易を求めるものだからです。

また、1873年、明治6年には、朝鮮に攻め込もうぜ!という征韓論が沸き起こり、政府内で大激論が交わされ、結局、無期延期になってしまったために、西郷隆盛や板垣退助は政府を離れました。
この征韓論への反対派には、大久保利通などがいましたが、他国に攻めるよりも、内政を優先すべきだと考えていたのです。
ところが、この日清戦争では、政府はかなりやる気満々で準備をして、戦争に臨み、勝利したことで、台湾や遼東半島などの領土まで要求しました。
スミスは、1870年台に顧問として訪日し、伊藤博文などに大きな影響を与えたと言われていますし、征韓論も無期延期になるなど、1870年代の明治政府は、戦争を仕掛けるような考え方では全くなかったのです。
それが、20年後には日清戦争で、侵略国家になってしまっている、これは一体どういうことなのでしょうか?
(2)なぜ清に勝てると思った?
2つ目の疑問は、なぜ清国に勝てると思ったのか?ということです。
日清戦争の8年前の1886年に、清国は燃料足りなくなったから、補給させてくれと、北洋艦隊を長崎港にやってきました。

これは清国の軍事力を誇示するという意味合いもあったのですが、この時にやってきた北洋艦隊には、当時最大級の艦船だった鎮遠と定遠も含まれており、こんなデケエ船持ってるんなら、清国に攻められるんじゃね?と、逆に攻められる方という意味で、危機感を持っていました。
ところが、それからわずか8年後に、逆に「中国をボコすぞ!」と戦争に仕掛ける側に回ったのです。当時の日本の海軍は、戦艦を増やしていましたが、まだ貧弱だったので、勝てるかどうかは微妙なところでした。
そういう微妙な状況だったのに、なぜ戦争に踏み切ったのでしょうか?
(3)なぜロシアを敵認定したのか?
3つ目は、なぜロシアを「敵」だと認定したのか?ということです。

ロシアは、1891年にシベリア鉄道を建設することを東の終着駅である、ウラジオストクで宣言し、1916年に全線開通しましたし、日露戦争の前の1904年には、東満鉄道と繋がって、戦争への準備も万端な状況ではありました。
また、このシベリア鉄道の建設を宣言するついでに、日本に立ち寄ったのですが、そこで皇太子のニコライが、大津で警官に切りかかれるという、暗殺未遂事件が起こりました。
なので、この時期にはすでに、日本国内でもロシアは敵だ!攻めてくるかも?やばい!という雰囲気があったんだと思います。
もちろん、当時のロシアは領土拡張期で、「シベリア鉄道=日本を攻めるための準備」と捉えた人は多かったようですが、だったら、イギリスのアヘン戦争、アロー戦争、フランスのインドシナ占領など、英仏の方がよほど既成事実がありました。
なのに、なぜロシアにこれほどの敵意を持っていたのでしょうか?
(4)なぜイギリスは、ロシアに不凍港獲得を認めたのか?
そして4つ目は、なぜイギリスは、ロシアの不凍港獲得を認めたのか?ということです。

詳しくは後述しますが、日清戦争では、イギリスが日本をかなり支援していた形跡が見られます。その理由は、19世紀の前半から、イギリスとロシアとの間で、グレートゲームと呼ばれる、植民地争いが行われていたからだと思います。
例えば、1853年のクリミア戦争や、1838年のアフガン戦争などは、イギリスがロシアの南下を防ぐために行われた戦争です。
当時のロシアは、冬でも使える不凍港を求めて南下しようとしていた言われています。
例えば、1885年にイギリスは、朝鮮半島の南に位置する巨文島を朝鮮政府に何も言わずに、いきなり軍事占領しています。
その理由は、ロシアが朝鮮政府に話をつけて、この巨文島を不凍港として使おうとしていることをイギリスが察知したからです。
1861年に対馬でも、同じことをロシアはやろうとしましたが、これもイギリスが介入して、ロシアを追い払いました。
このように、東アジアにおいて、イギリスは神経質なほど、ロシアに不凍港を持たせないようにしてきたのです。
それなのに、日清戦争後の三国干渉で、ロシアが遼東半島を咀嚼し、大連や旅順を不凍港として使うことに、イギリスが何もクレームを入れなかったと言うのは、明らかに不自然すぎますよね。
今までの経緯を見れば、何がなんでも反対して、ロシアを諦めさせたはずです。
3、日本とアメリカを乗っ取ったイギリス

ということで、ここまで私が思った、日清戦争に関わる不自然な疑問について、ご紹介してきましたが、それを解く理由は、やはりイギリスにあります。
簡単にいうと、イギリスがアメリカと日本の価値観を乗っ取ったのです。
それがために、これらの不自然なことが起こり、その後の日露戦争から世界大戦、そして、トランプ政権にまで繋がっているというのが、私の結論です。
そこで、ここからはこの点について、詳しく考察していきます。

まず最初に、19世紀のイギリスとロシアとの関係について、もう一度押さえておきましょう。
先ほども触れましたが、19世紀のイギリスは海軍力で世界中の国々を植民地にして行って、敵なしの状況でしたが、ロシアだけは、海軍ではなく、陸軍を使った、内陸部からの領土拡大を進めていたため、イギリス海軍の邪魔を受けずに、植民地化を進めることができていました。
そのため、イギリスはいろいろな国と協力して、ロシアの南下を食い止めようとしてきました。それが、クリミア戦争やアフガン戦争などです。
19世紀末に、地政学という学問が起こり、イギリスのような海洋国家をシーパワー、ロシアのような内陸国家をランドパワーと分類し、ランドパワー国家は領土の拡大を目指すので、イギリスみたいなシーパワー国家は、そのランドパワー国家が拡大しないように、周辺国と協力したり、各国の港を抑えていくことで、その拡大を防ぐべきだ、みたいなことが主張されていました。
なので、イギリスはロシアの拡大を防ぐために、東アジアでの担当を日本に任せようという腹だったのだろうと思います。

一方で日本は、徳川幕府の時代の1858年に欧米列強の5カ国と不平等条約を結ばされていましたので、欧米の植民地にならないように、早くこの条約を撤廃して、一人前の国家として認められたいという目標がありました。
そこで、今回の日清戦争です。
日清戦争は1894年7月25日に始まったのですが、なんとその9日前の16日に、日英通商航海条約が締結され、不平等条約が改正されたのです。
当時の列強5カ国のうち、イギリスが最も強い国だったので、条約改正が最も難しいと思われていたのも、イギリスでした。
そのイギリスが、なんと1番最初に不平等条約を撤廃してくれたというわけですから、何かしらの条件があったに違いありません。
それが、日清戦争を起こすことだったのではないか?というのが、私の仮説です。
実際、イギリスはこの日清戦争において、日本政府に対して、かなりの情報提供などの協力をやっていた節があります。

日本海軍は、英国人スパイのぜームスを雇って、清軍の情報収集をしており、ゼームスに7千円、現在価値で3億円程度の報酬を支払っています。
当時のイギリスは、横浜や上海など、日本や中国、そして朝鮮の港湾都市に多くの大使館、領事館、支社を持っていたので、政府や企業経由での情報が日本にも取らされた可能性が高いです。
そのため、日本もゼームスに多額の報酬を支払ったし、戦争を起こしても勝てると思えるレベルの、詳しい情報を手に入れていたのでしょう。
それで、日清戦争後を見てみると、1902年に日英同盟が締結され、1905年の日露戦争に備えて、ロンドン市場での資金調達が行われ、それによって軍備増強が進みました。

また、日清戦争後もロシアに敵対させるために、イギリスは日本と同盟を組んで、たびたび王室を訪日させ、明治天皇に謁見したりしています。
一方で、下関講和の後の、三国干渉では、ロシアの遼東半島の要求にも何も言わなかったおかげで、日本はロシアに対する印象が頗る悪くなりました。
あいつら、俺たちが戦争で勝ち取った条件に文句言うだけで、領土を奪っていきやがった、というわけです。
イギリスが三国干渉のメンバーに入っていなかったのは、もともと日清戦争に協力していたからだと言うこともそうだと思いますが、ロシアが不凍港を手に入れるのを何のクレームも入れずに見逃したのは、これによって、日本国内における、ロシア敵視が強まるだろうと見ていたのでしょう。
と、ここまでイギリスによる日清戦争への協力と、日露戦争に日本を向かわせるための外交工作について見てきましたが、このような姿勢にアメリカはどう考えていたのでしょうか?
まず、日清戦争については、アメリカはしょうがないと考えていた節があります。

そもそも、日清戦争が起こったきっかけは、朝鮮政府が王様である高宗と、その嫁さんの閔妃の一族、そして、高宗の親父の大院君の間で、熾烈な権力争いが続いていて、内政がグチャグチャだったからです。
当時のアメリカは、朝鮮を1つの独立国とみなして、対等な関係を結ぼうとしてましたが、清国の影響下にあったために、ろくな判断ができず、かといって、朝鮮内で起こったトラブルに対して、清国が責任を取るのか?というと、それは俺のせいじゃない、朝鮮に言ってくれ、と言う感じで、
まるで、実権は握ってるけど責任は取らない、ヨボヨボの創業者と、イエスマンの社長が運営してる同族企業のような、話にならないような国だったのです。
なので、アメリカも日本と清国が朝鮮のゴタゴタを理由に、出兵するも、それが日清戦争に発展してしまうのも、しょうがないなと見ていたように思います。
ただ、下関の講和条約では、清国がわのアドバイザーについていましたので、なるべく清国が酷い目に遭わないようにしようという配慮はあったと思いますね。
イギリスに乗っ取られたアメリカ
それで、当時のアメリカを見ていると、イギリス的な考え方を持つ、アメリカのエリートが増えていたために、少しずつアメリカ型の経済システムをよしとする人が減っていました。
1901年にマッキンリー大統領が暗殺されるのですが、この暗殺犯は、レオン・チョルゴッシュと言う無政府主義者でした。

当時、イギリスは無政府主義者の巣窟で、このチョルゴッシュに接触していたのがエマ・ゴールドマンと言うアメリカ人だったのですが、エマも、ロンドンに行って無政府主義者として活動を行っており、イギリスによる暗殺の可能性が濃厚でした。
マッキンリーは、アメリカ型の経済システムを各国に導入してもらい、互いが納得できる二国間貿易を通じて豊かになることで、イギリス帝国の自由貿易に対抗しようとしていた人です。
なので、イギリスとしては邪魔だったので、こういう大統領が出るたびに、暗殺やら毒殺をやっていたんですね。
そして、マッキンリーが暗殺された後になった大統領が、セオドア・ルーズベルトと言う、気狂いの棍棒ヤクザでした。

このおっさんは、顔はスタン・ハンセンに似てるような気がするのですが、中身は全くのクズ野郎の戦争狂いで、イギリスの手下みたいなやつでした。
例えば、マッキンリー時代にも、アメリカは戦争をやっています。
スペイン領だったキューバとフィリピンを独立させると言う口実でやった米西戦争と米比戦争ですが、実はこれは、当時海軍次官だったルーズベルトが、勝手に部下をけしかけてやらせたのです。
これによって、キューバでもフィリピンでも、大量の現地人が亡くなりましたが、イギリスの手下だったので、そんなの関係ねえとやっちゃってたんですね。
こんな感じで、19世紀後半から20世紀の頭にかけて、アメリカも日本も、1870年代までは持っていたアメリカ型システム的な世界観から、イギリス帝国主義的な世界観へと変わっていったように思います。

それは、当時の欧米の列強が、植民地の獲得合戦をやって、軍備をどんどん拡張していったため、自国の領土を守るだけでは、ジリ貧になって、他国から攻められてしまう、と言う恐れがあったからだと思います。
そのため、「力こそ正義」的な雰囲気が広がり、各国の軍人や無責任な言論人も、その方向に流れやすかったのでしょう。

例えば、徳富蘇峰は三国干渉にブチギレて、イギリスと同盟すべきだと吠えていたジャーナリストです。蘇峰は、その後、ロンドンやオランダ、ドイツ、モスクワ、アメリカなどを訪ねて、特にロンドンでは、タイムズやデイリーニューズなどのメディア関係者と仲良くなって、その後の日英同盟や植民地主義を唱えていくようになりました。
当時、メディアが発達していたのはイギリスですから、日本の言論人、ジャーナリストがメディアを立ち上げようとしたら、参考にするのはイギリスになります。
そうなると、自然とロシア敵視、植民地主義万歳、アメリカ型システム?何それ美味しいの?ということになっていったのだと思います。
そして、その結果が、日清戦争、日露戦争、そして世界大戦へとつながったのだろうと言うわけです。

じゃあ、戦後はどうなんだ?というと、これまた結局、イギリスの植民地主義的な価値観が続きました。
冷戦はアメリカとソ連を歪み合わせましたし、NATOの東方拡大は、ロシアを仮想敵国としたまま、挑発を続けた結果、ウクライナ戦争に繋がっています。
1970年代にキッシンジャーが、勢力均衡、バランスオブパワー外交をやって、名を挙げたと言われていますが、このバランスオブパワーという考え方も、アメリカ以外に強すぎる国が出てきたら、それはぶっ叩かなきゃいけないというものであり、
これは戦前のイギリスがやっていたことと同じで、イギリス型の植民地主義的な価値観であり、アメリカ型システムとは世界観が違います。それが今のいままで続いているというわけです。

しかし、第二期トランプ政権が始まって、その動きが徐々に変わってきたように思います。
トランプは、2024年の大統領選挙の時から、俺はマッキンリー大統領がやっていた、関税政策を復活させてアメリカの製造業を復活させるんだ!とマッキンリーについて、たびたび言及していました。
そして、昨年1月の就任初日に、オバマが2015年に名前を変えてしまった、アラスカのデナリ山をマッキンリー山に戻すという大統領令に署名しました。
これは非常に象徴的なことだったと思います。
別に関税政策だけのことを言ってるのではないのです。おそらく、マッキンリーが大切にしていた、アメリカ建国以来、連綿と続くアメリカ型システムの復活と、イギリス的な価値観の追放を宣言したものだったと思います。
現在のイラン戦争にしても、関税政策にしても、気候変動枠組条約からの脱退にしても、イギリスが作った、一部の欧米の金融機関やNGOなどのグローバリストだけが儲かって、それ以外は貧乏になるという、イギリス的な世界の仕組みをぶち壊すものなので、トランプは単に宣言してるだけでなく、すでに行動に移しています。
なので、トランプのやってることというのは、100年以上前からのアメリカの歴史に裏打ちされたものであり、それは大きく言えば、イギリス型の支配するかされるか、という上下の関係から、お互いが納得した上で取引を行う、対等な関係の世界へと変わっていくのだと思いますね。
日本の戦前の歴史については、まだまだ勉強中なので、また新しい発見がありましたら、改めて動画にしていきたいと思います。






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